教室の歴史
大正6年に創立した慶應義塾大学医学部では、泌尿器科学の講義は大正12年から阿久津三郎講師の担当により開始されました。その後大正15年1月、当時皮膚泌尿器科学教室の助教授であった北川正惇が泌尿器科担当教授に就任しました。したがって、慶應義塾大学泌尿器科講座の開設は大正15(1926)年1月15日とされ、我が国においては慈恵医科大学および九州大学に次いで3番目の開設とされています。
昭和21年に北川は健康上の理由から定員外教授となり、その後任には慶應義塾大学附属医専泌尿器科学の田村一が就任しました。当時、我が国の多くの医科大学あるいは医学部では、泌尿器科学教室は皮膚泌尿器科講座あるいは教室内に置かれることが多く、慶應義塾大学も皮膚科、泌尿器科の分離は昭和38年におこなわれました。田村は昭和40年3月をもって退任。後任として東京大学助教授を経て、関東逓信病院泌尿器科部長であった大越正秋が昭和40年7月より3代目の教授に就任しました。大越在任中の昭和43年ごろから医学部改革運動が激しくなり、教室も内部的に混乱期に入りました。
昭和49年、大越は新設の東海大学医学部泌尿器科学教授に転出しました。その後3年間にわたる教授不在の時期を経て、昭和52年に医学部評議会は田崎寛を次期教授に選定しました。田崎体制は18年3ヶ月にわたって続き、教室内部は安定期に入りました。
平成7年7月に田崎はニューヨーク医科大学泌尿器科の研究教授として赴任。9ヶ月の教授不在期間を経て、平成8年4月に村井勝が5代目の教授に就任しました。「泌尿器科領域におけるトランスレーショナルリサーチ」と「低浸襲治療の確立」を目標として掲げ、教室の発展に尽力しました。また平成11年に私学出身者としては初めて日本泌尿器科学会理事長となり、学会の国際化に貢献しました。平成19年3月に退任し、同年8月に大家基嗣が6代目の教授に就任しました。